線香の匂いが染みついた手を洗い、冷たくなった人の横に一番綺麗な花を添える。それが25年、私の日常だった。
斎場の静寂の中で、私は数え切れないほどの「最期」を見てきた。祭壇の前に崩れ落ちる遺族の涙。そして、もう動かなくなった人の口から二度と漏れることのない、数々の後悔。
中でも一番残酷だったのは、「いつかやろうと思っていたのに」という、やり残した時間の重みだ。
「いつか」なんて日は、カレンダーのどこにも存在しない。
それを嫌というほど見せつけられてきたはずの私が、49歳になり、鏡の中の自分に問いかけた。「お前の『いつか』は、いつ来るんだ?」
体力が落ち、現場の風が年々骨身に染みるようになる。会社に自分の人生のすべてを預け、定年という名の「出口」を待つ。そんな生き方に、言いようのない恐怖を感じた。
だから私は、25年握り続けたハサミを置き、デスクトップパソコンの前に座った。
逃げ場のない大きなモニターの光が、私の深いシワを容赦なく照わし出す。花の茎を一太刀で切るようなキレは、ここにはない。老眼で霞む目を擦りなが、呪文のようなIT用語と格闘し、X(Twitter)の投稿アプリ一つ形にするのに40時間を費やした。
収益は、いまだ0円だ。笑いたければ笑えばいい。
だが、葬儀の現場で「間に合わなかった人」を数え切れないほど見てきた私には、笑っている暇などないのだ。
■ 花の目利き、AIの迷子。
花の仕入れなら、私はプロだった。競り場に並ぶ花を一目見れば、どこの産地の誰が育てたものか、今の相場ならいくらか、手に取るように分かった。25年という月日は、私の体に「良し悪し」を瞬時に見分けるセンサーを叩き込んでくれた。
だが、このデスクトップパソコンの前に座ると、そのセンサーはピクリとも動かない。YouTubeの解説動画を食い入るように見つめ、ChatGPTに数度も質問を投げかける。だが、返ってくるのはどこか遠回りで、冷たい答えばかりだ。
「すんげえ遠回りしてるな……」
独り言が漏る。新しいことを覚える高揚感はある。けれど、それ以上に「時間」が私を追い詰めていく。
今は、次の仕事へ向けて体を休めるための「休職」の時間だ。本当なら、25年の疲れを癒やすべき時間。それなのに、私は休むことを忘れたかのように、この画面に食いくらいついている。
体を休めるはずの時間が、AIとの格闘で削られてくる。焦りと、戸惑い。25年かけて積み上げたプロの自負が、たった一行のプロンプトの前に、音を立てて崩れていく。
■ 「仕入れ」ではなく「今」に、一番の水を。
人生は一度きりだ。「いつか」と言い残して旅立った人々を、私は数え切れないほど見てきた。残酷なことに、私たちの人生の「仕入れ」は、いつ終わるか誰にも分からないのだ。
49歳。今日が残りの人生で一番若い日だ。始めようとしなければ、何も始まらない。ただ「お金があれば」と未来を待つだけで、今を楽しむことを忘れてしまったら、いざおじいさんになってもそこのは枯れた心しか残っていないのではないか。
要領は悪い。収益はいまだ0円だ。それでも、私は今日、新しい「紫」のプロンプトを覚えた。枯れゆく「いつか」を待つのはなく、今この瞬間に、一番新鮮な水をやる。
もしあなたが、かつての私のように立ち止まっているなら。不器用でもいい。一緒に一歩だけ、踏み出してみませんか。人生の最期に添える一番若い花を、自分自自身で育てるために。

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